高校も奈良県

2008年3月4日

前回は中学校まで振り返り終了。
今回は高校時代のお話しです。

今考えると何でもないんですが、高校受験で人生で初めての挫折を味わい、滑り止めで合格していた帝塚山高校に無事進学。
この頃は奈良県でも真ん中あたりの「橿原市」に住んでいましたので、高校のある奈良市までは近鉄電車で結構な時間がかかりました。
それも早朝補習のようなものもあり、かなり早めに家を出ていました。
同じ中学からの知り合いもおらず、不安いっぱいのスタートでした。
その後、1ヶ月程度でしょうか、金魚すくいで有名な「大和郡山市」に引っ越す事に。

今振り返ると、私の為に引っ越してくれたのかもしれません。
親ってありがたいですね・・・。

新しく住む事になった家は結構広く、少々変わったつくりでしたが、その変わりようが、お子ちゃまの私にはちょっとした喜びになっていました。
と同時に、通学も格段に楽になり、学校にも慣れ始め、少しずつ楽しい日々が送れるようになってきました。

が、その日は突然やってきました!

ある日、学校から家に帰ると、弟が一人家で留守番をしていました。
いつもなら母親も帰宅している時間です。
その日は父親も仕事を休んでいたはずです。

私は弟に「お母さんは?」と尋ねました。
すると弟は「病院へ行った」と・・・
その後の事はかなり記憶があいまいになっています。おそらく、心の奥深くに封印しているのだと思います。何度も思い出そうとしても今日まで一度も鮮明には思い出せません。

大体の流れは、
弟が帰宅した時に、父親が庭で倒れていた。
それを見た弟は母親を呼んだ。
母親が見た時には父親の意識は無かった。
慌てて救急車を呼んで病院へ向かった。
ということでした。

そして、母親より電話が入りました。
「○○病院に入院してるから、タクシーでおいで」と。

タクシーに乗り、病院へ到着。
父親は集中治療室で意識は無く、反応も無く、寝ていました。テレビで見るようないろんな物をつけて。

それまで、友人のお葬式には行った事があったものの、人の「死」について身近に考えた事も無かったものですから、頭は真っ白でよく理解できませんでした。

そこで聞かされたのは、
「もう無理だろう」という事。
「1週間持つかどうか」という事。
でした。

その日の朝、私は普通に父と会話し、「行ってきます」と言って家を出たんですが、帰ってきた時にはもう話す事すらできない状態になっている。
その当時は、この状況が理解できませんでした。

ごめんなさい、続きは次回に。

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1971年、奈良県橿原市生まれ。京都でWebを中心としたプロデュースなどを行うオフィスピコッツの代表。これまで多種多様なWEBサイトの制作や運営、プロデュースに携わり、複数のWEB系のコンテストなどでの受賞暦も持つ。 現在、WEBサイトの作成や運営などはもちろん、新規事業立ち上げのサポートや各種プロジェクトのアドバイザー、大学校や高校の講師、PTA会長、CEOなど、活動の範囲を広げている。